天天音の随筆

忘れないように書いておきます。

「うまいコメが食べたい」~コシヒカリ ブランド米の伝説 ―そして、風が吹いた (プロジェクトX~挑戦者たち~)

 

「うまいコメが食べたい」を読んだ。kindleでだ。100円だし、この分量ならお得。

 

現在、魚沼産コシヒカリは日本で最高級の米である。おいしいよね。本書を読むまで、米産地の新潟は昔から米所で、おいしい米がとれていたのだと思っていた。実際には、新潟県の魚沼地方は日本で最も貧しい地域のひとつといわれ、冬期には雪に悩まされ、土を掘ればすぐに石ころが出てくるという土地であった。

 

本書の主人公の農業技術者の杉谷文之さんは、終戦後の食糧不足を改善するため新潟県農業試験場に赴任する。条件の悪い土地に嘆きながらも、栽培実験を開始する。越南17号の交雑を重ねて生み出されたコシヒカリは、1960年代に入って、栽培県は新潟、福井、栃木、千葉、茨城、富山、三重の7県に広がった。しかし、各地の農業技術者の評価は厳しかった。「茎が弱い」「いもち病に弱い」「倒状の可能性あり」「茎が長い」「多収性か不明確」という欠点があった。コシヒカリは倒れてしまっても生きており、収穫することは可能であったが、作業性が悪くなってしまう。また、冷水、低温に強く、やせている土地でも栽培することができる。熟色、米質、姿形が美しく、また何より食味がよい。長所をそのままに、欠点を克服するために杉谷の発想が素晴らしい。

 

育種交雑で克服できないならば、栽培方法で克服しようというものだ。

 

プロジェクトエエエエエックス!!!

 

いもち病と多収性は田植えの時期、水管理、肥料管理で克服・挽回できる。また倒れてしまうことは背が伸びすぎてしまうことであった。普通のイネなら草丈90cm、一方コシヒカリは1mを超えてしまっていた。そのため、重心が高くなり、バランスを崩してしまうのであった。背丈が伸びる時期には、肥料を控え、穂が実る時期には慎重に肥料を分け与える方法を編み出した。

 

順調にうまい米を栽培する技術が確立されだした頃、世間・政策の逆風が襲う。多収性を重視した政策が打ち出されたり、新潟県産米はまずいといったレッテルを張られてしまう。戦後の政策が功を奏し、米が過剰供給されるようになり、減反政策等が施された。また、自主流通米制度という制度が策定された。以前は全生産米を政府に売っていたが、政府指定の米問屋になら売っていいことになった。加えて、値段は米の品種、産地ごとに別々につけていいことになった。おいしい品種、良質の米を作ると評判の良い産地の米は銘柄米とされ、政府が買い取るよりも高い値段で取引された。

 

ここらの歴史的背景は難しいところです。

 

そうした後、コシヒカリの栽培を全国的なものにしようというコシヒカリ栽培技術開発プロジェクトが出来上がった。農業の機械化が進むにつれて、機械化に対応するように栽培方法も変わっていった。プロジェクト野中で、一番難しかったのは、「葉の色で施肥する時期を見極める技術」であった。万人がわかる、納得するモノさしがなかったためである。色は千差万別で、人によって見え方が違う。そんな中、技術者の國武さんがフィルムメーカーの富士写真フィルムのカラーフィルムに出会う。そして、葉の色を正確に表す、「カラースケール」が誕生した。稲作用カラースケールの発明により、コシヒカリの栽培地域は魚沼だけでなく、県全域に広がっていった。

 

当時、米の市場はササニシキが一世を風靡しており、コシヒカリの知名度は低かった。そこで、プロモーションをかける。ターゲットは世田谷、杉並の住人。富裕層の影響力は絶大で、たくさんの注文が入ってくるようになった。コシヒカリの開発から普及まで、20年以上もかかったのであった。

 

技術者は、政策や社会からの目線に気を配りながら開発しなければならないのだと感じた。今の市場の米はコシヒカリが主流であるが、このような状態になるまで、20年以上もかかっているのには驚かされる。農業(とくに育種)のすごさを改めて感じた。もしコシヒカリが生み出されず、多収量だけが重視された(まずい)米を食べることしかできないと考えると、ぞっとする。また本書は育種の技術にフォーカスは当てられていなかったが、育種で克服できない部分は栽培方法でカバーするという発想(あきらめ)が良かったのではないかと思っている。

 

風の中のスバルぅうううう~(真面目な内容だったのでちょっとふざけて